田中圭一のゲームっぽい日常 究極の脳内遊び

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とあるインタビューで某有名マンガ家さんがこんなことを言っていた。

「自分の作品には度しがたいような悪人は出てこない。そんな悪いヤツは自分の作品世界にいて欲しくないからだ。」

この記事を読んで、ものすごく共感した覚えがある。

さて、大学でマンガを教える立場になって、その難しさを実感している。マンガに限らずフィクションとか創作は、作者のインナーワールドで展開される「究極の脳内遊び」なのである。多くの人が現実逃避の手段として「こうなったらいいのに」という願望から脳内でキャラクターやストーリーや設定を作り出す。これをアウトプットすることが「物語を作って発表する」という行為だ。
なので、基本的に物語は、第一に「自分を満足させるもの」であり、次の段階として「読む人・観る人を満足させるもの」になる。

この第二段階へ移行する過程で読者に「わかりやすく、興味深く、心を動かし、読後感を良くして、作品と作者を好きになってもらう」ことを教えるのが私の仕事だ。
料理に例えるなら「お客様に出すための料理法、盛り付け法」だ。もちろんお店の雰囲気や来店してもらうための広告・宣伝も大切なのだが。

ここで問題になるのは「脳内遊び」と「読者を満足させるための商品」との距離感だ。このふたつがニヤリーイコールになっている学生はいいのだが、ものすごく距離のある学生への指導はたいへんだ。これまた例えるなら、とても珍しい食材で料理をしようとする学生に対して「そんな食材は万人受けしないから、もっと人気のある食材を使ったら?」という指導は、その作家の個性を奪ってしまうことになる。では、珍しい食材を万人受けするように料理する方法を伝えればいいではないかと思われるだろうが、その方法は、例えるならパクチーをふんだんに使って誰もが「ものすごく美味しい!」という料理を作るようなものだ。

もう一つの問題は、前述した「私の作品世界にそういうキャラクターや設定は入ってこないで欲しい」という思いにどう干渉していくか、である。「究極の脳内遊び」であるマンガに、他人が干渉する際、作者に「そのアドバイスは腑に落ちる」と感じさせないと無理だからである。

家を建てたり病人を治療したりする場合は「正しいやり方」があり、それに従って作業を進めることに誰も躊躇はないだろう。しかし、マンガのような流行を生み出す類いの創作物に「正しいやり方・マニュアル」は存在しない。「こうすれば絶対にヒットする、という方法」があるのなら苦労はない。ハリウッド映画でさえヒットしない作品があるのだ。

では、学生との信頼関係をちゃんと構築すれば済むことではないか、とも思われがちだが、作家のインナーワールドに干渉するという特殊な状況なので、信頼だけでは前に進まないことも多い。

こういう悩みに直面するにつけ、「新人マンガ家を生み出す編集者たちは本当にがんばっているのだなぁ」と感心する。

タグ , | 2020/06/16 更新 |