田中圭一のゲームっぽい日常 日本人はいつから「悔しがること」をやめたのか?

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ハリウッドが送り出すロボットや怪獣の映画を観て、特撮ファンたちが狂喜乱舞している。「トランスフォーマー」「パシフィック・リム」「ゴジラ」。どれもCGを駆使した存在感、巨大感が圧巻だ。

私は以前から日本の特撮について、CGが万能に使える時代に未だ着ぐるみとミニチュアで撮っているのはどうなのか?と感じていた。なので、ハリウッド怪獣映画を観て私は「そらみろ!日本人がノロノロしているうちにハリウッドに全部持っていかれちゃったじゃないか!」と奥歯をギリギリと鳴らしたのだ。

ところが、多くの日本人は「ありがとう!ハリウッド。ぼくら日本人の宝物をこんなに凄い映像に仕上げてくれて!」と絶賛している。

ちょっと待て!みんな悔しくないのか?本来なら日本人が作るべきだった映像だぞ?

1954年の「ゴジラ」が作られた時代、日本人は敗戦の影を引きずっていたこともあって「アメリカに負けてなるものか!西欧なにするものぞ!」という気概があった。

もちろん、アメリカ映画やコミックへの強いリスペクトがあった上でのことだが、手塚治虫は「ディズニーに負けてなるものか!」で「メトロポリス」や「ロストワールド」を描いたのだし、「ゴジラ」も「キングコング(人形アニメ特撮)に負けてなるものか!」という意気込みで作られた。

この気運は60年代以降も続いていた。

「サンダーバードに負けてなるものか!」で「ウルトラセブン」や「宇宙戦艦ヤマト」が作られたし、「アメリカではスター・ウォーズってのが凄いらしいぞ!俺たちもSF特撮作るぜ!」で生まれたのが「惑星大戦争」や「宇宙からのメッセージ」であった。

ところが、90年代の「ジュラシック・パーク」あたりから、「俺たちだって、あのくらい作れるぜ!」という気概がなくなってきた。CGの圧倒的なクオリティに打ちのめされたためなのだろうか?

その後の「トイ・ストーリー」をはじめとするフルCGアニメにも日本の映画会社は消極的だった。

そして今、この状況である。

このままでは、日本独自のコンテンツが次々にハリウッドへ「食材」として渡り、アメリカの料理人によって「世界に通じる高級料理」に仕立て上げられる。これでいいのだろうか?日本の食材は日本の板前が料理してこそ意味があるはずだと思う。そうやって世界に送り出すことが「クールジャパン」の発展に繋がるのではないだろうか?

タグ | 2020/06/16 更新 |